いつまでも君と……

愛犬のために わたしたちができること

寂しさは上手くつきあえるもの。そして思ったほど悪くはないもの。――かも ~悩みの話、再考察(2/2)~

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文:高栖匡躬

人って、何か大きな悲しみに直面すると、その意味を探したくなりますよね。そこには意味などないことが、ほとんどなのかもしれません。

しかし、”意味を探そうとする”ことには、”意義”があるように思います。きっとそれは、悲しみを希望に変えていく、前向きな行為なのではないでしょうか?

今回は過去に公開した記事(『悩みの値段』『悩みの賞味期限』)の再考察です。愛犬の闘病、介護、看取りでは、飼い主は大きな悩みを抱えます。しかしその”大きさ”はいつも相対的です。

本話は、扱う題材の性質上、多少回りくどい言い回しになることをご容赦ください。

ここから先は、犬のお話です。しかし、実は人の心のお話でもあります。犬のことを考えながらも、そこから人が抱える悩みについても、透けて見えてくれば嬉しいのですが……

 

 悲しみと悩みについて、もう一度位置付けを

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前回は、 ”悲しみ” と ”悩み” は、きっと別物なのではないか、と書きました。
それを、もう少しだけ踏み込んで考えてみます。

時系列で考えると、 ”悲しみ” と言うのは思い出で、 ”悩み” は現在進行形であるように思えます。もっと細かく言うと、 ”悲しみ” は現在生じているものですが、時が経つに従って、過去(思い出)に変わっていくもの。一方 ”悩み” は、現在に付きまとっている、一過性のものです。

愛犬の闘病にそれを当てはめてみると、全力で病気と闘った愛犬が、死を迎えたその時に、飼い主の ”悩み” は消えて、 ”悲しみ” に変わるものなのだと思います。
そして "悲しみ" は、時間に癒されていくものです。

過日の記事での『悩みの賞味期限』 は、そういう意味を込めて書いたものでした。
1年で悩みなどは忘れてしまうと書いたのは、元々あの文章が、愛犬の闘病のためのものでなく、これから起業する学生さんを励ます目的のものだったので、断定調でした。愛犬の闘病の引き合いとして出すには、相応しくない表現だったかもしれません。

ただ、 ”悩みなどは、たかがそんなものだ ”という、筆者の気持ちには変わりありません。むしろ問題は、一過性でなければならない ”悩み” を、必要以上に大きく抱えてしまうことにあるのではないでしょうか?

”悩み” は大きく育て過ぎると、愛犬が死を迎えても尚、 ”悲しみ” に変わらないままで、いつまでも、 ”(解決のしようのない)悩み” の状態のまま、抱えてしまうことになると思うのです。

”悩みは、ほどほどにしておいた方が良い” と書いたのは、そういう意味です。

 

後悔と言う要素

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Photo by Ben White on Unsplash

ここからは、愛犬の闘病ではなく、愛犬との別れ(死別)の話になります。

先程は、愛犬が死を迎えた時、飼い主の ”悩み” は ”悲しみ” に変わると書いたのですが、全てがそうではないように思います。
 ”後悔” という要素だけは、 ”悲しみ” と同じように、ずっと心に居座りつづけるもように思うのです。

因みに、筆者にとっての後悔は次のようなものです。

 例えば、こんな後悔
  ・もっと他に、良い治療法があったんじゃないか?
  ・元気な時に、もっと遊んでやればよかった。
  ・雨の日に、散歩をサボってしまって、ごめんな
   ……
   ……
  ※特に、3番目の後悔は大きいです(笑)。 本当にです。

筆者の経験から言うと、 ”後悔” というのは、どうやら ”悲しみ” よりも、癒えるまでに余計に時間がかかるような気がします。

そして ”後悔” に関しては、一つだけ気を付けないといけない事があるように思います。それは、恐らく ”後悔” は、 ”悩み” に容易に変化しがちだという事です。

悩みへの対処のおまけとして、後悔への対処も付け加えるならばこうです。

後悔も、ほどほどにしておいた方が良い

 

寂しいけれど、悲しくはない

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さて、筆者の愛犬ピーチーがいなくなってからの、我が家の事を少し書き添えておきます。

今も筆者は、ピーチーが去って行ったときの悲しさとか、切なさは、鮮明に覚えています。ピーチーが息を引き取る数日前からの、一日一日の気持ちの変化は、全て詳細に思い出すことができるのです。

もちろん、息を引き取る瞬間の事も、それから後の事も……

しかし面白い事に、はっきりと当時の悲しさを思い出すのに、今、悲しいわけではありません。寂しいんのですが、今は少しも悲しくは無いのです。

 ●

妙な例えにに思われるかもしれませんが、それは骨董のコレクターが、時々秘蔵の壺を蔵から出してきて、眺めるようなイメージです。

時折、筆者は心の奥の方から、 ” 悲しみ” を引っ張り出してきます。
そして持ち上げてみて、色んな角度からじっくりとそれを見るわけです。

どこかに変化はないか?
この角度から見たら、いつもと印象が違うな!
などと思いながら。

そして、ひとしきりそれをやったら、「ああ、うちには良いお宝があるなあ」と、満足して、またその ” 悲しみ” を、心の奥に仕舞いにいきます。

その時の気分は、とても幸せです。
意外かもしれませんが、 ”悲しみ” というのは、楽しむことができるのです。
”悲しみを愛でる”と言うべきかもしれません。

こんな気持ちは、分かるでしょうか?
愛犬との別れを経験された皆さんは、どう思いますか?

 

ちょうど良い距離感

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闘病の話として書いておきながら、最後は死の話になってしまって、恐縮に思います。
しかし、最後にもう一つだけ。

死んでしまった愛犬と、飼い主の間には、ちょうど良い距離感があるように思います。その距離は、人それぞれなのでしょうが、思い出す都度悲しむというのでは、何となく、いなくなった愛犬に申し訳ない気がするのです。

例えば、筆者が自分の理想と思うのは、以下のようなものです。

 旅だった愛犬を思い出すとき
 ・不意に、いなくなってしまった愛犬を思い出して、ちょっとしんみりしてしまう。
 ・そこで、「ああ、いい子がうちに来てくれたなあ」と、ぼそりと一言。
 ・それから、なんとなく嬉しくなって、笑顔になって――
 ・「今日は良い日だから、ちょっと美味しいものでも食べに行こうかな」
  などという感じ。

これは飽くまで、筆者にとっての理想なので、皆さんは自分なりの良い距離感を探してみてください。

● ● ●

経験者として言うならば、愛犬はそこに姿はなくなっても、いつも一緒だという感覚です。だから、どうやったら(たまったま今、姿を消している)その子と、楽しく過ごせるかを考えたら、いいのではないかと思います。

我が家の場合は、今振り返ってみると、愛犬との距離感を探る作業は、闘病のときから、もう無意識の内に始まっていたような気がします。
それは、もうすぐいなくなってしまうだろう愛犬と、別れた後にどう付き合って行くかという、心の準備だったのかもしれません。

これが、いただいたご意見への回答になっていると良いのですが。

―― 悩みの話、再考察・おわり(2/2) ――

(ライター)高栖匡躬

 

――本記事は、下記の連載で構成されたものです――

―― 下記は本話の関連記事です。 ――

 

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